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マディソン(Madison)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州中南部に位置する都市。同州の州都であり、またウィスコンシン大学の本部キャンパスであるマディソン校を抱える学術都市でもある。人口は233,209人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕で、ミルウォーキーに次ぐ州第2の都市である。デーン郡を中心に4郡にまたがる都市圏は605,435人、ジェーンズビルやベロイトを含む広域都市圏は827,742人(いずれも2010年国勢調査)の人口を抱えている〔。 マディソンのダウンタウンはメンドータ湖、モノーナ湖という2つの湖に挟まれた地峡の上に形成されている。この2つの湖と、近隣のウォーベサ湖、ケゴンサ湖とをあわせた4つの湖が連なる地域に立地していることから、マディソンは''The City of Four Lakes''(4つの湖の街)と呼ばれている。一方、政治的には自由・進歩・革新の気風が強いことから、''The People's Republic of Madison''(マディソン人民共和国)、''Left Coast of Wisconsin''(ウィスコンシンの左海岸)、''30 square miles surrounded by reality''(現実に囲まれた30平方マイル、「78平方マイル」とする呼び方もある)とも呼ばれている。また、学術都市としての性格と1960年代のカウンターカルチャーの流行から、''Berkeley of the Midwest''(中西部のバークレー)とも呼ばれる〔Ryan, Alice. Swinging the blues in the Midwest US . ''Trinity News''.〕。 ==歴史== 1829年、元連邦裁判官ジェームズ・デューン・ドーティーはメンドータ湖とモノーナ湖に挟まれた地峡を探索し、この地に都市を建設すべく、1,000エーカー以上に及ぶ沼地・森林を購入した。その後1836年にウィスコンシン準州が成立すると、最初の準州都であったベルモントでウィスコンシン準州議会が開かれ、恒久的な準州都をどこに置くかについて議論が持ち上がった。すると、ドーティーはこの構想上の都市に、6月28日に死去した第4代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンにちなんでマディソンという名を付け、また街路にはアメリカ合衆国憲法の署名者39人の名を付け、ここを準州都とするように準州議会を説得した。当時準州の2大都市であったミルウォーキーとプレーリー・ドゥ・シーンのちょうど中間にあり、北東には準州最古の都市グリーンベイが立地し、また南西には発展著しい鉛鉱山地帯が広がっていた地の利から、準州議会は11月28日、まだ構想段階にあったマディソンを準州都に制定した〔A History of the City of Madison . City of Madison.〕。 翌1837年には準州会議事堂の建設が始まり、1838年にはマディソンでの最初の準州議会が開かれた。その後マディソンは1846年に人口626人の正式な村となり、1848年に準州の州昇格に伴ってウィスコンシン州の州都となり、また、ウィスコンシン大学マディソン校が設置された。1854年には、マディソンにミルウォーキー鉄道が通った。1856年には、マディソンは人口6,863人で市制を施行した〔。 南北戦争中には、マディソンはウィスコンシンにおける北軍の拠点となっていた。ミルウォーキー通り、イースト・ワシントン通り、ウィネベーゴ通り、ノース通りが交わる角はユニオン・コーナーズと呼ばれ、南へと向かう北軍の兵士にとっては最後の休憩地となっていた酒場が建っていた。市の西には、当時のウィスコンシン州知事アレクサンダー・ウィリアムズ・ランドールから名を取った、キャンプ・ランドールと呼ばれる野営地が設けられ、訓練所、野戦病院、および南軍捕虜を収容する牢獄として使われていた。終戦後、キャンプ・ランドールはウィスコンシン大学のキャンパスに組み入れられ、その跡地には1917年にキャンプ・ランドール・スタジアムが建てられた。 マディソンはその市制施行当時から、周囲の町を合併して拡大を続けてきた。20世紀後半に入り、中西部の他の主要都市が軒並み衰退に向かい、市域人口を大幅に減少させる中にあっても、マディソンの人口は増え続け、2000年の国勢調査では市史上初めて人口20万人を突破した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マディソン (ウィスコンシン州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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